パワースポット、筆遊びで有名な雁田薬師浄光寺。護摩法要、厄除け祈願、がん封じ、息災延命の祈願寺。癒しの里霊園。

2011年6月23日 被災地支援 南相馬〜女川

6月22日

23:00 信州中野インターセブンイレブンから出発。運転手は和田洋さん。小布施町社会福祉協議会の川上事務局長と私の3人で、福島経由で宮城女川へ向かう。上信越自動車道から磐越自動車道へ。配布された無線から元気な声が届く。快調快調!

6月23日

2:50 磐梯山SAで笑顔プロジェクトのバスとお別れ、3人を乗せたエスティマは一路南相馬へ向かう。

3:38 二本松インターチェンジから高速を降りる。

4:15 飯舘村に入る。窓の外は薄明るくなってきた。田んぼや畑には雑草が生え放題でまったく耕作している様子が見当たらない。

4:40 南相馬市に入る。・・・が携帯の電波がつながらないほどの山の中。面積は小布施の21倍の市ではあるが、その多くは山林のようだ。ここにも水田には水がなく、耕作している様子はない。

5:00 南相馬市役所着。とはいっても約束は午前9時。まだ市役所は開庁前。西から東に移動してきたが、ここまでは震災の様子がわからない。時間もあるので東の海岸へ向かう。

5:03 東へ向かってわずか3分。左折した途端にいきなり目の前に出てきた津波によると思われる悲惨な住宅。もちろん、これでは人は住めそうにない。元々畑だったのか、住宅があまりなかったのかわからないが、住宅が急に目の前からなくなってしまった。初めて見るあまりの悲惨な光景に3人はただ息を飲むだけだった。
 

5:15
さらに東の海岸へ向かう。海が見えてきた。釣竿を持った人がいる。降りてみると北の方に白い建物が見える。東日本大震災で火災に見舞われた東北電力原町火力発電所だ。

降り立った海岸は北泉海水浴場。たぶんあったであろう瓦礫はきれいに片づけられていたが、その石段の上に無造作に散らばっていた千羽鶴が何を意味しているのか、想像するのには時間はかからなかった。
内陸の方へ戻ると、歩道に打ち上げられた自動車が1台だけポツンと撤去されないまま残っていた。

5:30
義援金を渡す約束の時間の9時までまだ時間があるので、車を停める場所を探す。JR原ノ町駅前に到着。JRは運休中で、代行バスを運行しているらしい。駅前の交番も震災の影響なのか誰もいない、というより備品等がすべて片付けられている。駅前に有料駐車場があったが、なぜかゲートが開きっぱなしだったので、しばしそこに停めることに。目覚ましを8:30にセットして仮眠をとる。

6:51
「ウィーン、ウイーン、ウィーン」かつて嫌ほど聞いた、ドキッとするような音とともに目が覚める。緊急地震速報だ。身構えていると車の中ではあるがわずかに揺れを感じる。テレビやツイッターでは震度5弱の地震が岩手県で発生したとのこと。津波警報もでているらしい。着いていきなりか!と思っていると、妻や職場の仲間などから続々と「地震、大丈夫だった?」のメールが。しばらくテレビを見ていたが、津波警報は解除されたらしく、再び仮眠をとることに。

8:30
セットした目覚ましが鳴る前に目が覚める。普通なら通勤通学の時間帯だがJRが運休しているせいか、それらしき人影は少ない。代わりに目につくのは白い防護服に身を包んだ自衛隊のジープ。2台3台を目の前をみな南の方角へ向かって通過していく。

8:50
南相馬市役所着。相馬野馬追執行委員会のある観光交流課へと向かう。課長さんなど職員のみなさんと名刺交換。担当の坂下さんに案内されて市長の応接室へと向かう。

9:00
桜井勝延南相馬市長と面会。災害対策でお忙しいであろう中、市長自ら義援金の受け取りをしていただけるのは大変うれしく、またありがたい。義援金の趣旨をお話しし、川上社会福祉事務局長から桜井市長に義援金を渡していただく。あわせて中野の農園からお願いされたりんごジュースもお渡しする。カメラマンは運転手の和田さんに急遽お願いした。絵手紙「リスの会」「彩の会」から南相馬市民のみなさんへの寄せられた絵手紙も渡す。

桜井市長「地震は毎日あるからさっきの震度2か3程度の地震は地震のうちに入らない。震災から3ヵ月が経過するが震災当初は職員も逃げ腰で、いっそのこと避難指示区域(後に警戒区域)になったほうがよかったと思っている市民や職員もいたが、そんなことでどうすると檄を飛ばしてここまでやってきた。津波でやられた地域は全部で41平方キロある(なんと小布施の面積の2倍以上!)」

参考:南相馬市は市の3分の1程度が立ち入りが制限される避難指示(警戒)区域に、その他の地域が緊急時避難準備区域と計画的避難区域になっており、市全体が原発事故による何らかの区域に設定されている。市役所は福島第一原子力発電所から約25キロの位置にある。

「相馬野馬追の祭りには私も馬に乗って出陣するが、毎年暑さとの戦い。鎧兜は現代風の物とはいえ15キロくらいある。市の中を700騎の馬が練り歩くお行列もあり迫力満点。ぜひ見に来てほしい。今年の野馬追は縮小開催となるが、来年は何とか本来の規模でできるようにしたい。小布施町には個人的に2度3度と訪れていて、長野県とは他の市町村とも交流があり何かと縁があると感じている。小布施のようなまちづくりを目指してこれから復興に向けて市民のみなさんと頑張っていきたい」と笑顔で語ってくれた。とても原発から25キロの町にいるとは思えない、前向きなリーダーの姿に感動した。こういうときにこそリーダーの存在というのは非常に重要なのだと強く感じた。本当にお忙しい中、我々のために30分も時間を割いていただきありがたかった。一時的な避難者の受入など、小布施町として今後もできることは支援していく旨を伝え、応接室を後に。

参考:桜井市長は動画投稿サイトYouTubeを使って生活物資の足りない被災地の状況を訴えたことなどから、4月21日のアメリカのニュース雑誌『タイム』(ニューヨーク・タイムズ)が2011年版「タイム100(世界で最も影響力のある100人)」の一人に、桜井市長を挙げた(Wikipediaより一部引用)。
 

9:55
未だに雨が降り続く中、南相馬市役所を出発。一路女川へ向かう。第一ミッションが完了し、やや安堵の雰囲気。しばらくは高速道路がなく国道6号を北上する。海岸沿いの地域でない家でも屋根にブルーシートがかかっている家が多く、地震による被害の大きさを感じさせる。

10:05
相馬市に入る。水田には水がひいてあり、稲が植えられている。右手に瓦礫の集積所が見える。

10:27
林さんから電話。足湯大好評とのこと。よかった!
 

10:40
山元町。ここも津波の被害だけでなく、地震の被害が多くの家屋にある。常盤自動車道に入る。

11:00
仙台空港インター。右手に廃車になった車の集積所らしきものがみえる。

11:40
矢本PA。高野に運転手交代。

12:00
石巻河南インター下車で石巻市に。女川街道を進んで海岸沿いに近くなった途端に津波の被害の地域に入る。その壮絶さにまた息を飲む。南相馬はとはまた違った、市街地をまるごと飲み込んだ津波の爪痕を感じる。すごい、ひどい・・・の言葉しか出てこない3人。車の窓を開けるともわっとした生臭いにおいが入ってくる。

女川町に入ると、さらにすごい光景が。元の市街地はどういう形であったのかまったくわからない光景が眼に飛び込んでくる。

12:48
女川運動公園着。南相馬から約3時間、ようやく目的地に到着。予定よりやや遅れてしまった。総合体育館前では笑顔プロジェクトの足湯が大好評。太鼓隊による演奏が次は女川第一中学校で行うとのことで早速そちらへ移動する。

13:15
笑顔プロジェクト太鼓隊の演奏開始。小学生が座って、中学生はベランダから笑顔の太鼓の演奏に聴き入る。

13:27
「蝶々(ちょうちょう)」の歌を使ってお姉さんと一緒に円周率の歌をみんなで歌う。「円周率〜円周率〜は〜いは〜い知ってるよ♪3.141592653589793238462643383まだまだ続くよ〜あ〜あ〜眠たくなっちゃった♪」

このお姉さんは誰?「朝の7時からNHKの教育テレビでシャキーンていうテレビ番組見たことある人〜?」「は〜い!」子供達ほとんどの手が挙がる。「シャキーンシャキーン♪シャキーンシャキーンシャキーン♪シャキーン♪朝もはよからシャキーン♪シャキーン♪シャキーン♪って歌っているの、私です」「えーーーーーーーーーーーーーーーーー!?」子供達からびっくりと拍手!

歌のお姉さんの後には、再度太鼓隊の演奏。アンコールまでついて子供達も大満足!歌のお姉さんは演奏が終わっても大人気。

14:00
総合体育館に戻る。プリンパフェやりんごジュース配り。体育館入口のちょっと先で、たぶん仙台大学の学生がお年寄りに、椅子に座りながら体をほぐすような運動のボランティアをしていた。体育館の前には愛媛県社会福祉協議会など、西日本などから来たボランティアの人たちなどの車がたくさん駐車してあった。

15:20
総合体育館での積み荷を完了し、出発。救援物資を女川第一小学校に届けに向かう。同小学校は避難所ではあるが、ベランダに亀裂が入っていてとても避難所とは思えない。

15:50
再び石巻市内へ。信号が点灯していない。交差点では警察官が手信号。

16:08
石巻市役所。デパートが市役所という一風変わった石巻市だが、震災前から元々市役所らしい。愛知県警が真横を通過していく。

16:46
三陸自動車道に入る。帰路に着く。和田さんに悪いと思いながら若干うとうと。

23:40
休憩をはさんで、信州中野インターセブンイレブン前に戻ってきた。みなさん、お疲れ様!
 

[今回の被災地訪問で感じたこと]

・もっと近くにいたなら、毎日でもいかなければいけないと思うほど、3ヵ月経っているとは思えないほど、現地では復興が遅れている。未だに瓦礫の撤去が終わっていないところもある。

・壊れてもう住めないだろうと思われる家で住もうとしている人もいる。被災者の人はそれでも前向きに、なんとかしようと踏ん張っている。

・市町村、避難所毎に被災状況はまちまちで、私たちはテレビにかなり影響されているように思う。現地を一目見れば、その悲惨さと事の重大さに気づくのではないか。

・夏の暑さを前に、津波が襲った衛生状態の悪い中で巨大なハエ(クマンバチ並み)が大発生し、これからの時期の衛生状態が心配。

・未だパンやおにぎり一つという生活を送っている被災地の支援は、これからも継続して行っていかなければ!

 

小布施町役場 高野伸一