パワースポット、筆遊びで有名な雁田薬師浄光寺。護摩法要、厄除け祈願、がん封じ、息災延命の祈願寺。癒しの里霊園。

2011年7月12日 女川支援活動

7月12日、笑顔プロジェクトのメンバーと再度、宮城県女川町で支援活動を行ってきました。笑顔プロジェクトの活動は4月、5月、6月に続いて4回目です。

今回、小布施町として笑顔プロジェクトと合同で被災地支援活動を行った目的は、

  1. 笑顔プロジェクトの活動の後方支援として、町公用車の提供(町社会福祉協議会もワゴン車の提供)
  2. これからの被災地支援に何が必要かを探るため、被災地・被災者のニーズ調査である。

 そして、今回の女川町での活動で強く感じたことは、

  1. 依然として避難所生活を続けている人たちもいるが、全体として「集団(避難所)」から「個人(仮設住宅、移住)」へ被災者の生活が大きく変化してきている中、「誰に、何を、どのように」支援していくのか、明確にした上での活動が必要になってきていること。
  2. 支援活動は被災地からの「指示待ち」の状態では何もできないということ。支援活動に正解はなく、必要だと思われることをすぐに決断し行動するスピード感が非常に重要だということ。
  3. 被災地で被災者と向き合い、「また来てくれてありがとう」と言われるような「顔の見える」支援が必要だということ。

私たちは一部のテレビや新聞等の報道でしか被災地の状況を見ていません。現地に行き自分の目で見て肌で感じ、現地の人の話を聞くことで、真にどういった支援が必要なのかがわかるのではないかと思いました。

そしてもう一つ、笑顔プロジェクトのみなさんと一緒に2回の支援活動に参加して感じたことは、小布施のみなさんの力強さ、行動力です。笑顔プロジェクトのみなさんに刺激を受け、引っ張られているといっても過言ではありません。行政で支援活動に携わる者として、これから一緒にできることを考え、ともに支援活動を続けていきたいと思います。 

笑顔プロジェクトメンバーと避難所生活をするマッキーさん(前列中央)
宮城県女川町の仮設住宅前で
 

 仙台南部道路に入る分岐点には「通行止め」の看板が。作業員が道路を歩いている。どうやら道路整備・点検のため交通規制されているようだ。車は南部道路に入れずに列をつくりながらインターから降りている。

分岐点まであとわずか。「このまま高速を降ろされて一般道で女川に向かうのでは予定の時間に間に合わない!」メンバーに緊張が走る。その時、私たちが乗車していたエスティマの横を先ほどの作業員が通過してくではないか。すかさず運転手の本藤さんが声をかける。「この規制、いつ解除されるんですか」「午前6時ですね」。6時まであと20分。「ここの作業車の後ろで、待たせてもらっていいですか?」。どきどき…「いいですよ。ちょっと待っててくださいね」

ミラクルだ!メンバーは歓喜に沸く。3台連なって作業車の後ろにつき規制解除の時間まで待つ。なぜか全員車から降りる。「いや〜。高速道路に立てるなんて」「木下さん、高速道路でタバコを吸うなんて一生の間にもうないかもしれませんよ」。こんな会話をしている横を、何をしているの?という目で我々を見ながら高速を降りていく車を見るのも爽快だ。

さすが笑顔プロジェクト!どんな状況でも笑顔でそれを解決してしまうそのたくましさに「感動」!

 午前8時過ぎ、予定より遅れて石巻河南インターを降り、女川へ向かう。途中、石巻市街地を通過。3週間前とほとんど変わっていないように見える。窓を開けるとムアッと来る生臭さも同じだ。

途中、セブンイレブンで休憩。思い思いに朝食を取る。一息ついたワッシーは、無線を片手にナビ替わりに道路案内をしたり、歌を歌ったりと快調だ。

 反対車線から宇部と書かれた護送車とパトカーが列をなして通り過ぎていく。東北3県ではもう見慣れた光景だ。

女川に入る。多少、瓦礫の撤去が進んでいるように見える。撤去以外に、新しく建物を建てようとしているような光景も垣間見える。

思わずカメラを向け、写真を撮る。しかし、ふと頭を疑問がよぎる。「いつまでも悲惨な状況の写真を撮ることに何の意味があるのだろうか」
今、こうして写真を撮れるのは、震災から4ヵ月が経過しているからだ。震災当初にカメラを向けることは果たしてできただろうか。シャッターを押しながら、罪悪感と虚しさに近い、何とも言えない感情が込み上げてくる。

 午前8時40分、女川町立病院前に到着。道路を挟んで併設する女川町保健センター・包括支援センターで給食を作り始めるとのことで、そのために必要な保冷庫を届けるのだ。

 女川町立病院は海岸に近く高台に位置している。今でこそ震災の面影はなくきれいになっているが、震災発生時は海岸の水位から15メートルも上に位置する1階まで津波が押し寄せたという。震災からしばらくは病院前の駐車場や道路で患者の救護や手術を行っていたとも聞いた。

 女川町保健センター前の柱が大きくへこんでいた。たぶん、津波によって瓦礫が流され、ぶつかった痕跡であろう。15メートルの高台に津波が押し寄せてこようとは、いったい誰が想像したであろうか。

保冷庫をトラックから降ろし、保健センターの厨房へ。厨房は改装中でさまざまな機器が設置されている最中だった。

ドアがスライドして開き、スペースを取らない最新式の保冷庫の設置が完了。ここの厨房では約500人分の給食をつくるという。早く使っていただき、多くのみなさんのお役にたてていただきたいと願う。

保冷庫の設置に立ち会っていただいた栄養士の今野さん。今野さんも自宅が流された被災者の一人。震災発生時は外で仕事をしていたという。林くんが今野さんに震災当時から現在の状況、これからの支援についてさまざま聞き取りを行った。

その2人の間にある柱にかけられている時計にふと目が行く。午後3時34分付近で止まったままだ。「ここに津波が押し寄せてきた時間です」と今野さん。時計の上20センチくらいのところには薄っすらとした線が残っている。ここまで津波は来たのだ。柱についた跡と止まった時計が、今は見えない津波のすごさを私たちに教えてくれていた。

 次は女川第一小学校で筆遊び教室。学校では相澤教頭先生が笑顔で出迎えてくれた。林くんとの対人距離の近さが、その親密度を感じさせる。

学校の「応接室」であるベランダに通された笑顔プロジェクトのメンバー。ベッキープレゼンツ笑顔うちわが林くんから相澤教頭先生に渡された。笑顔の教頭先生。この後、子どもたちにうれしそうにうちわを見せて自慢していたことはここだけのナイショ話。

相変わらずハエが多い。なぜが3週間前より小ぶりの普通の大きさのハエになっていた気がする。学校の至る所にはハエ取り紙がぶら下げられており、おびただしい異様な数のハエがくっついていた。

相澤教頭先生「いま私たちに必要なことは物資の支援などではなく、日常の教育ができること。女川は他の被災地と比較して早く学校の授業を開始することができたが、他の被災地では始業の開始が遅れ、土日に授業を行っている学校もある。筆遊びは国語の授業、太鼓演奏の鑑賞は音楽の授業として教育課程に位置づけることができる。そうした支援を継続していただけることがうれしい」

 筆遊び教室開始。今回は3年生、4年生、5年生にそれぞれ1時限ずつ授業として行う。すでに何回も経験している子どもたちと林くんは「お友だち」だ。

 今回はお香を和紙に挟んだ文香作品に挑戦。「ほんとにいい香りがするの?」文香の匂いを嗅ぐ子どもたちの顔が思わずしかめっ面に。お線香のような匂いは子どもたちにとってはほろ苦い香りなのか?

 和紙を半分に折りって包み込むようにした中に文香を入れ、のり付けする。「ちょっとでいいよ」そのちょっとがわからず、スプーンてんこ盛りに入れる子どもも。「それじゃあ、でこぼこして字が書けないよ〜(笑)」

 まずは林先生がどのように書くのか見てみよう!ということでまずはお手本。「夏のおいしいものと言えば?」「スイカ〜」スイカの絵から夏という字を書いてみせた林くん。子どもたちからはすご〜いと感嘆の声と笑顔が。

 「さあ、今度はいよいよみなさんが書いてみましょう」というところで、私と矢島さんはワッシーと一緒に避難所での聞き取り調査に向かうことになり、後ろ髪をひかれる思いで教室を後にする。でも、子どもたちが喜んでくれ楽しそうでよかった。

避難所の訪問には、NPOとして女川で支援活動をしているヤマピーが現地コーディネーターとして案内してくれた。女川のことは熟知しているヤマピーとワッシーの車の後について避難所へと向かう。

最初に訪れた避難所では数人の女性にワッシーが聞き取り調査。何が不足してるかとの問いには食品を扱うためのビニールの手袋やごみを入れる半透明のごみ袋がほしいとのことだった。衛生面から水道水の塩素が強くなっていてとても飲めないという話だったので、水道水を少し飲ませていただいたが、特に異常は感じなかった。

 次に向かったのは女川公民館御前浜分館。ここは女川町が公には認めていない避難所らしい。避難所は津波が来たところにはつくれないということからだそうだ。この御前浜の人たちはほとんどの人が漁業で生計をたてていたという。若い人は多くの人が仮設住宅に移動していってしまい、ほとんどいないようだ。この避難所に残った人はこの浜で死にたいのだと、町の反対を押し切っていまここに住んでいるのだ。

避難所の前にはこれでもかという数のペットボトル。その中には無数のハエが。酢と酒と砂糖を調合したものをペットボトルに入れておくと、ハエが寄って来てそれに触れると死んでしまうらしい。そうでもしないといられないほど、これでもかという数のハエが飛んでいるのだ。

公民館の横に仮設住宅が設置されていて風呂もあるらしい。外にはサウナもあった。私たちが訪問したのはお昼前の11時頃。避難所にはお年寄りの姿しか見えなかった。

次に向かったのは女川町の最北端に位置する指ケ浜地区避難所。仮設住宅は完成しているがまだ誰も住んでいないようだ。隣接した場所にはコンテナに住んでいる人がいる。コンテナには窓がなく、この暑さの中でどのように生活しているのかと心配になる。

少し離れたコンテナに住んでいる人に話を聞くと、この地区の人は9割の人が漁業組合に入っていて漁業で生計を立てていたという。コンテナの横には全国各地から送られてきたのだろう飲料水などの救援物資が山積みになっているが、保冷庫などに入っているわけではなく、衛生面から大丈夫なのだろうかと思ってしまう。

さらに別の場所で一家族だけで暮らしているお宅を訪問。家は現在住んでいるコンテナより上にあったが、津波で倒壊してしまったという。今一番何がほしいという問いに対しての第一声は「おじいちゃんのお墓に供えるお線香がほしい」。ワッシーが用意してあったお線香を渡す。これが被災地の現実なのだ。

海は一見美しさを取り戻しているように見えるが、魚はまだ獲れないという。美しい海に魚が戻るのはいつなのか、それでも海に散らばったブイを集めている漁師さんの姿が印象的だった。

午前中に予定された避難所の訪問を終了し、お昼を購入して女川第一中学校へ戻る。中学校の体育館は津波の被害こそ受けなかったものの、地震により甚大な被害を受けていた。窓ガラスは割れたままだ。倒壊の危険性もある危険な建物に子どもたちを避難させられないということで、石巻広域消防の女川消防署の仮庁舎として使用しているという。

私たちは先にお昼をいただくことに。グラウンドの木陰に車を停め、外で食事を取ろうとするが、とにかくハエがすごい。座って食べているとハエがどんどん群がってくる。ハエと格闘しながらの食事も一苦労だ。

その後、筆遊び班と合流し、女川総合体育館へ救援物資を届ける。ここでも水道水の塩素が強くてとても飲めないということだったので試しに飲んでみたが、改善されたのかそれほど感じなかった。

総合体育館の入口では、仙台市から来たみなさんが太鼓の演奏ボランティアをしていた。威勢のいい掛け声と太鼓の音色がグラウンドに響く。

次に前回まで総合体育館に避難していたマッキーが仮設住宅に移動したということでそちらへ向かう。女川第一中学校と総合体育館の間には女川町役場の仮設庁舎がある。女川訪問後の19日に完成したらしい。女川の復興がここからさらに進むことを祈りたい。

3週間ぶりにマッキーと再会。マッキーが住んでいるのはゲートボール場に建てられた15棟の仮設住宅のうちの1つ。マッキーの好意で仮設住宅の中を見せていただいた。日本赤十字社が家電製品を無償で提供してくれていて、家財品にはそれほど不自由していないようだ。しかし、仮設住宅に移動するということは基本的に自立できるという線引きになるといい、収入面でしっかりしていないと生活できない。仮設住宅の子どもたちのために共用の自転車がほしいとのこと。

マッキーは震災当日、女川町内で働いていた。津波が来るとの連絡を受け、総合体育館に何も持たずに車で避難。その間に津波が来襲し、家はすべて流されてしまったという。震災から3・4日は1家族にせんべいやクッキーが1枚渡されるだけというような生活。その後、ようやく自衛隊が救援に来たという。

その自衛隊も撤退が決まり、自衛隊が提供していた風呂がなくなるという。震災から4ヵ月が経過し徐々に被災地の状況は変わってきているが、被災者毎の乖離が生まれてきていることを強く感じた。

 

8月には仮設住宅を離れ、東京へ行くというマッキーにまっぴんさんから風船のプレゼント。最後に全員で「はい、ボーズ」。みんなに笑顔がこぼれる。

(実はこの写真の前に、ワッシーのミラクルがあったのだが、ミラクル過ぎて写真を撮れなかった。木下さんに「なんで撮らなかったの?」と怒られてしまったが、あの状況では撮れないっす、木下さん…)

今回の目的を終え、帰路につく。再び通る石巻市内にいまだ山積みされた瓦礫の山と異臭。市内ではたぶん学生であろう若者がボランティア活動をしていた。

今回、個人としては2回目の訪問となった女川町。3週間前に訪れた前回とは感じた事は微妙に異なる。

被災地の人は前向きに、そしてたくましく生きている。私たちはいったい今、何をしているのか、自戒せずにはいられない。

女川町では瓦礫の撤去がようやく一段落したというのが現実だ。復興はまだまだ始まったばかり。時間が許す限り、また立場に関係なく、今後も支援活動を続けていくと、帰り路に東北で見た美しい夕日に誓った。

小布施町役場 高野伸一